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うっかり日記を消す前にまとめて保存してフヒーオワッターとか言ってそのまま満足していたらしいなどと…
*ウォール街の悪魔達
※秘密警察のおはなし
「まーた派手にやったわねぇ」
部屋の中には、未だ乾き切らない血の臭いが充満している。それを掻き消そうとするかのように、メイコは煙草の煙を燻らせた。足の長いシルエットと、開けた胸元の豊満なラインを、憂鬱そうに振る。その足元で、遺体に掛けられた白い布を軽くめくりながら、「全くですね」と珍しくカイトがメイコに同調した。
「遺体の身元は今確認してますが、十中八九ここの職員と見て間違い無いでしょうね」
「部屋の荒らされた形跡はありあり。でも、目的はこっちじゃないわね。多分殆ど何も取られちゃいないわ」
物が散乱した部屋の中に、血塗れの死体が一つ。普段、元々の相性が悪いのか、顔を合わせる度に目くじらを立てる間柄の二人でも、これ程までの絶対的な殺戮の前には、意見をぶつけ合う気力も沸かなかった。メイコはうんざりとでもいう風に肩を竦めて床から目を逸らし、カイトも元々生気の無い青白い顔に、益々くっきりとした疲労を浮かべて首を振った。
殺されたのは、彼らの配属する部署からそう遠くない、同じような政府直属の秘密機構の人間だった。それも、今月に入ってこれで三度目だ。真っ黒いスーツに身を包み、けれどまるで対称的な、着崩した細身のスーツと長いロングコートをぴっちり羽織った男女は、ほぼ同時に何度目かにならない溜息を吐いた。
「………ちょっと、被せて来ないでよ坊ちゃん」
「貴女が僕と同じ行動をしただけでしょう、こんな時でも脳天気な人ですね」
「あ゛?あたしがいつあんたとおんなじ行動取ったって?止めてよ気分悪くて反吐が出そうだわ」
「なー、メイコ姉。もう良いだろー?早く引き上げようぜ」
それでもまだ余裕があったのか、毎度のやり取りを繰り返し始める二人の後ろで、部屋の扉に凭れ掛かったレンが、無駄に元気な大人の姿に呆れたように声を掛けた。その隣では、血生臭い臭いに顔を顰たリンが、せめて臭いから逃れるように、レンに身を寄せていた。アンドロイドである彼らに、本来成長過程の人間の子供に向けるような気遣いは全く無用であるのだが、そもそも部屋の奥に入ろうという気が沸かなかったらしい。どうせ、中に入った所で、間近に見れるのは前回と同じ顔の原型を留めていない死体だけだ。いくらプログラミングされた人格と言えど、これだけ短期間にこうも残忍な手口の事件が多発すれば、まだ大人になりきれない年頃である彼らには気分を落ち込ませる程度には刺激が強い。そもそも殺人事件なんて、本来彼らの管轄外だ。幾度もの修羅場をくぐり抜け、人の血には慣れていても、特に前線で働く立場にないリンには、酸化した血液のむっとするような湿気と臭いは慣れるものではなかった。
「ねえ、結局犯人の目的ってなんなの?部署もバラバラだし、それっぽい大事な書類みんな残ってるし。っていうかここの警備ってそんなに薄くないでしょ、内部犯の可能性アリって事?」
「今の段階じゃ何とも言えねーけどな…まあ俺らに回ってくる辺り、人間に任せられない部分があるんだろ」
憂鬱げにレンに寄り掛かり、その首筋に顔を埋めて緩慢な呼吸を繰り返すリンの背を撫でながら、レンが返す。真面目に答えているというよりは、漠然とした予測を更にぼかしているような口振りだった。実際の所、よく分かってはいないのだろう。それよりも、いつもより血の気のない相方の頬の方が気掛かりらしかった。その髪に血の臭いがこびりつかないよう掻き回しながら、これ以上ここにいても無駄だろう、と再びメイコに目で許可を求める。メイコはちらりとカイトを見てから(また珍しく、カイトもメイコを見ていた。一瞬視線がぶつから、すぐに逸らされる)、「そうね」とぼやいて天井を見上げた。
「ここにいても、目星いものは見付からなさそうね。鑑識に回した方が早いかしら」
「同感ですね。僕らがいると、人間は入って来れないですし」
やれやれと立ち上がったカイトが、メイコと同じ意見で扉を向く。寄り添いあった双子が、意外そうにカイトを見るが、何か口にする前にすぐに目を伏せた。リンは自分の足元を見つめ、レンはそんなリンを見ていた。自分達に無い血の臭いをよく思わないのは、アンドロイドである彼等には同じ事だった。各々がその場から足を進め、秘密警察の機械達が、この血生臭い部屋を後にしようとした、その時。
「違う」
ミクだけが、足を動かそうとしなかった。部屋の中心に立ち尽くしたまま、じっと遺体を、いや、中を見つめている。普段の猪突猛進で落ち着きない態度とは打って変わって、ミクはしっかりと開いた瞳でまっすぐ前を見据えていた。碧色の瞳が、ガラスのような空虚さと、彼らにとっては馴染み深い、プラスとマイナスに支配された電子の重さを伴って、鮮やかな色に輝いていた。ミクの瞳に、表情はない。まるで、感情を無くした機械のようだ。そんな彼女の様子に、メイコと双子は不可解に眉を潜める。カイトだけが、突然踵を返すと足早にミクのとへと戻っていった。
「……何か気になる事でもありましたか、ミク」
「犯人は何も盗むつもりなんてない。奴らの目的は、情報の流出ではない」
「では、何を」
「被害者の共通点は一つ。かつて、政府直属秘密機構の第六部署で働いていた人間。犯人の目的は、これを私に気付かせる事」
「………だい、ろく?」
淡々とした口調でそう言ったミクに、不思議そうに聞き馴染み無い言葉を復唱しながら、リンが首を傾げる。咄嗟に顔を上げ、側にいた二人を見上げると、レンとメイコもまたリンと同じような顔をしていた。彼等にとって、それは聞いた事もない名前だった。しかし、カイトはそうでないらしく、なにそれ、というリンの言葉を遮って、「我々秘密警察よりも特殊とされる、政府の最重要機密とされていた部署の一つですよ」と説明する。
「部署、と言うより、一つの研究機関と思った方が良いでしょうか。しかし、部署自体数年前に解体され、今ではその存在を知るものも僅かしかいません」
「ちょっと、そんなの私達でも知らないわよ?一体何の研究してた部署な訳?」
「それは……」
メイコに問われ、カイトは珍しく歯切れの悪い答えを返した。瞳を逸らし、何か言葉にしようと唇を震わせた後、やがてそれも止めた。メイコが再び問い詰める前に、黙ってミクの後ろ姿を見つめる。
カイトがミクに視線を向ける事によって、言葉の意味がわかっていない三人の視線もまた、ミクの方を向いた。その場にいる全員の目が、碧海のような長い髪を揺らした少女、VOCALOIDとして頂点に君臨した歌姫の成れ果てへと向けられる。
ミクは、黒いワンピースの裾を翻して振り返る。その瞳に先程までの空虚さはなく、今度は一筋の強い光が浮かんでいた。噛み締めていた唇を開いて、深い息と共に言葉を吐き出した。
「VOCALOIDの軍事利用実験だ」
+++++
続かない
*月のない空
わたしのレンは、臆病だ。
何かあると、すぐに「しにたい」っていう。ほんとうは、そんな勇気もないくせに。人よりちょっと落ち込みやすくて、怖がりで、考えすぎなひと。世界はみんな怖いものだと思ってる。
わたしのレンは、やさしい人だ。
傷付くのが怖いから、傷付けるのも怖いから、いつもじっと息を潜めている。自分が誰かを傷付けてしまうのを恐れている。自分の事だけで手がいっぱいのくせに、人の痛みにまで敏感な、優しい人だ。だからレンは、いつも耳を塞いで瞼を閉じて、きゅっと唇を噛み締めたまま動かない。うずくまって、一人で何もかも背負い込んでしまう。
そんなレンだから、助けてを言えないレンだから、「助けて」の代わりに「しにたい」と呟くのが癖になってしまった。レンが口を開くとき、それはいつも絶望の形をしている。決して他人に向けられない、小さな刺に包まれたレンを見ているのが辛いから、わたしはいつもレンを抱きしめる。
「死なないよ」
わたしはレンを抱きしめて、おんなじ言葉を繰り返す。ぎゅううと抱き着いてくるせいで胸がちょっと苦しいけれど、気になるほどじゃなかった。レンは臆病だから、わたしを抱きしめる腕の力も、どこか心許なくて弱い。どうすればいいのか分からない迷子みたい。だからわたしは、そんなに怖がらなくてもいいんだよと教えてあげるために、レンをつよく抱きしめる。
「レンは、死なない」
「………なんで」
「わたしを置いて、レンはどこにも行かないよ」
そっと撫ぜた背中が、ぴくりと小さく震えた。わたしのレンは臆病な人だ。わたしのレンは優しい人だ。レンは、わたしがレンを必要としていることを知っている。だからレンは、「しにたい」と呟きながら、今日も一人で生きている。
「死んじゃいやだよ、レン」
ぎゅっとわたしを抱きしめる、その腕の力がつよくなる。冷たいレンの腕の中で、いつかわたしも冷たくなるのだろうかとすこし思った。ひとりで逝くのはさみしいから、わたしはレンの胸に、自分の体温を押し当てる。ずっと一緒にいようね、という言葉は、弱々しい鼓動に掻き消されてしまった。
+++++
突発30分くらいクオリティ鏡音リンさん(sweet)
*ベルガモットオレンジ
こぽりと音を立てた水の流れに目を覚ました。リアルに耳元を通過していく水音に、一瞬自分がどこにいるのかを分からなくなる。それでも、肌を伝う柔らかい熱に、眠りは急速に遠退いて行った。夢を見ていたような記憶はない。初めから彼女側にいなかったからだと、気付きはしたけれど見ない振りをした。気付くよりも、気付かれる方がずっと怖かった。
「あ、起きた」
他人に膝を差し出し拘束されて尚、文句一つ言わない彼女はまるで何事も無かったかのようにそう言った。邪気のない微笑みすら交えておはようなんて言ってのける彼女に、今は朝じゃないと理不尽な反論が脳裏を掠める。そうじゃないだろ。自問自答は得意な方で、優しさに苛立つ生身の感情を一蹴し、首を絞め、桜の下にでも埋葬してから瞼を開ける。薄暗い世界。雲の裏側に青空と太陽が飲み込まれ、今にも迫り来る闇に悲しい烏がこだまする、淋しい世界。夜に食い荒らされる直前に、小さな希望に縋り付く、滑稽な自分が1番悲しかった。
温かい膝に頬を押し付けて、おはよう、と一言呟いた。リンは笑って、いつの間にか解かれていた髪を撫でる。指先で丁寧に、存在を確認するように梳きながら、お寝坊さんだね、と甘ったるい声で囁いた。世界に二人だけしかいないような、まるで切り取られた空間だった。時間の流れに置いていかれる。部屋の中はこんなに狭い。リンの膝で丸くなって、どこまでも深く沈んでしまいたいような、甘えた自殺願望が脳裏を掠める。このまましんでしまおうか。少しだけ考えて、止めた。もう一度瞼を閉じる。リンの指先が暖かくて心地良い。この隣にいられるのなら、もう少しだけ生きてみよう。
++++
突発20分くらいクオリティ鏡音レンさん(serious)
*爪痕
ぱりり、と剥がれてしまったものを、一瞬自分の心臓かと思った。
「マニキュア」
「ん?」
「剥げちゃった」
右手を掲げて、不格好になった人差し指を見上げる。まぁるくカーブを描いた先っぽの、黄色が欠けてその裏側の生々しい色が浮かんでいた。
「これ、データとかじゃなかったんだ……」
「何を今更。ちょっと見してみ」
読んでいた雑誌を畳んで、レンがあたしの側までやってくる。オレンジのクッションをわざわざ引っ張って来て、その上に腰掛けているあたしのすぐ横で、レンは気にする様子もなく無造作に床の上に座った。レンに引っ張られるまま、右手を差し出す。欠けた爪先をまじまじと見つめ、ようやくほんとだ、とレンは呟いた。
「塗り直した方がいいなこれ。ちょっと待ってて」
「えー?自分で出来るよー」
「良いから」
言い残して、レンは立ち上がる。あたしがオレンジのクッションから降りて、それを膝の上に抱える頃に、レンは細々とした容器をいくつか器用にまとめて持って戻って来た。
「はい右手」
「落とすの?」
「当たり前だろ。すっげえムラになるぞ」
差し出された掌に、自分の掌を重ねる。別にいいのに、と口先で呟きながら、実際自分でマニキュアを塗り直すつもりなんてこれっぽっちもなかった。たとえ自分で出来る事であっても、他人にしてもらうのが嬉しい事って結構ある。逆に、してあげて喜ぶヤツもいる訳で。例えば目の前のソレとか。
除光液をコットンに軽く付けて、レンは丁寧にあたしの爪をなぞる。つんとした染みる薬品の匂いが、直接頭に響くみたいでちょっとクラッとした。薬の匂いだなんだと昔は騒いだけれど、どっちかというとこれはあたしにとって大人の匂いだった。メイコ姉さんとかルカちゃんとかが、よくさせている匂い。嫌いと言えば大嫌いだし、好きと言えば嫌いじゃ無い。善くも悪くもささやかな憧れと失望を抱かせる、そんな匂いだった。あたしはまだ、この匂いを誰かに嗅がせる気にはなれない。
レンがあたしの爪を塗っている間、特にする事もないからただそれを見ている事にした。自分よりちょっと長くて骨張った器用そうな指先が、細々と動くのを見ているのはちょっと楽しくて、大分不愉快。『大人』の匂いを、例えばニナ・リッチの香りの中に、よりにもよってレンがいるのは、アンバランスを通り越してあたしを不安定な気分にさせた。それこそ、ここじゃないどこかにトリップしてしまいそうだ。線を振り切るくらいハイになって、同時に吐き気がする程気分が悪くて、それが除光液の匂いの所為だと気が付いた。
「レン」
「何」
「うりゃ」
「ああ゛!?何してんだお前、まだ乾いてな……!!」
優しくあたしの爪を包んでいた掌を振り切って、丁寧に色を乗せて貰った指でレンの頬を引っ掻いた。力加減をせずにやったから、ひょっとしたら薄皮が刔れて傷の一つ出来てしまったかもしれない。しかしそれは、まだ乾いていなかった黄色に塗り潰されて、絵の具のついた筆でなぞられたような、優しくて情けない色になっていた。肌が白いからよく映える。
「やっぱルカちゃんに塗ってもらう」
ぎゃあぎゃあ言ってるレンを置いて、立ち上がる。オレンジのクッションが膝から転がり落ちて、レンの目の前に落ちた。いきなり理由もなく引っ掻かれたと言うのに、レンはあたしの爪ばかり気にしていた。当たり前だよね、と心の中で呟きながら、やっぱりさっき剥がれ落ちたのはあたしの心だったんだと思う。塗装が剥げた心臓に、除光液の匂いは染みた。それは、レンの匂いと混じり合って、あたしをとんでもなく高い所まで掠ってしまう。受け止めてくれるベッドが無ければ、あたしはまた鏡を叩き割ってしまうだろう。
「あのねぇ、レン?」
「あ゛!?んだよ!!」
怒ってる割に返事をする。理不尽を認識してる割に不平は言わない。でもそれが優しさとは限らない、あたしの可愛くて可哀相な相方に一つ。恨み言を詰め込んだ捨て台詞を投げ付ける。
「ざまあみろ」
ひひひ、と笑顔を残して扉を閉めた。傷口に、除光液の匂いは染みるだろう。あたしの心臓も、大体そんな感じだ。
+++
* 無気力バスタイム
ざばざばざばざば、とバスタブにとめどなく流れ落ちる水の束を、レンは顔を顰て無造作に閉めた。コックの閉まる小気味良い音に、うるさいくらいだった水は急に静かになる。まるで、息をする事を止めたみたい。バスタブの縁まで溜まったお湯が、ちゃぷちゃぷとあたしとレンの肩を撫でる以外、音は無くなってしまったかのようだった。それが何だが寂しくて、同時に怖くてあー、と意味もなく声を上げれば、水蒸気を含んだ空気にぼやけた声が反響した。
「息苦しい」
「風呂の中だからな」
「お風呂の中だから息苦しいの?」
「体が水の中だからじゃね?詳しくはしらね」
浴槽の縁に頭をもたせ掛け、レンは呆れたようにじとりとあたしに目を向けては、すぐに逸らす。それが照れとか恥じらいならばまだ可愛いものなのに、レンの目は、ただ単に放り出されたシャワーの水滴を追い掛けただけだった。
一人で入るなら、足を伸ばせずとも悠々出来るくらいの大きさを持つバスタブは、二人で入るとそれなりに狭い。縦の幅は勿論だけど、それより気になるのは寧ろ横の幅だ。足をどこに置いていいのか分からない。いつもだったら向こうの端までぐいーと伸ばすスタイルが基本なのに、何せあたしの向かい側は占拠されている。あたしと同じように、レンがバスタブの端を背もたれにしているせいで、あたしの足は今の所行き場を無くして小さくなっていた。これじゃあのんびり出来ないし、かと言って今すぐ出てけと蹴り飛ばす程、レンに愛着が無い訳ではない。なので、妥当案として右足をうりゃとレンの肩に乗せてみた。すると、おいやめろと相変わらず無愛想な声をしたレンに、足首を掴まれて簡単にあたしの足は中に浮いてしまう。
「足伸ばしたい」
「うちの風呂じゃあ無理だ」
「買い替えてよレンきゅん」
「無茶言うなよ。ミク姉とかに頼めって」
「頼りな、甲斐性無しめ」
「何とでも言って下さい。それよりちゃんと足入れろ、お前冷え症なんだから」
言いながら、レンは軽く溜息をついて、掴んだままのあたしの足を軽く摩った。ほらもう冷えてんじゃん、と、ぱしゃぱしゃと足にお湯を掛けてくる。それが何だか擽ったくて、思わずうひひと笑うと気持ちわりぃよと呆れ声で返された。嘘偽り無い淡々としたその声が、あたしは結構好きだったりする。だから、ぐいと身を乗り出して、レンが閉めたコックを捻ってもう一度湯舟に水を落とした。
「おい、リン?」
「お湯が冷めちゃって寒いんだもん。あたしお風呂は40度以上じゃなきゃ嫌」
「お前は江戸っ子かよ…北海道生まれの癖に」
「あ、バスボム入れるの忘れた」
元の位置に戻って、ばしゃばしゃと足で波を立てる。再び浴室に水柱の落ちる音が反響して、水蒸気の溜まった空気が肺を押した。そのぼんやりとして生暖かい不思議な空気に、あたしは思わず鼻を鳴らす。天井には水滴と、指先に触れるプラスチックの小さな染み。ゆらゆら揺れる水の中、二人分の足もまた、白くゆらゆら揺れていた。片膝を立てたレンの足は、やっぱりあたしよりは男の子だ。瓜二つだと言われる鏡の音は、どうしたってこんなに違う。だから愛おしいのでしょうか、と、閉じてしまった残響に問えば、天井から水滴が一つ落ちて来た。それは、湯舟に落ちて、水面に小さな波紋を残して消えていく。
「落ちた、」
「何が?」
「水滴」
「あー、そう」
「だから冷えるんだ」
「そうかぁ?」
「そうだよ。あ、そだ」
あたしが腰を浮かせると、ざふりとまた水が音を立てた。この音も、嫌いじゃない。気難しく眉を寄せたレンを他所に、体をくるりと反転させて、レンの胸にまるごと体をもたせ掛けた。それがあんまり唐突だったから、流石のレンも首を傾げて、おい、と一瞬波紋が広がる。そんなレンを振り返り、あたしは足を、二、三度揺らす。
「足、伸ばせた」
「……そりゃよかった。そんな伸ばしたいなら俺出るけど?」
「それじゃ意味ないんだから、分かってよ」
視界の先で、四本の足が、絡み合ってゆらゆら揺れていた。それをうごかす度にちゃぷ、ちゃぷ、と透明な水もゆらゆら揺れて、まるで金魚にでもなった気分だ。もたれ掛かった肌から、確かな熱と鼓動が伝わる。小さな震えが水を揺らして、あたしの肌を震わせた。偽物の鼓動。でも、やっぱり嫌いじゃない。嫌いじゃない、が、水の中でゆらゆら揺れる。この時間が、あたしは好きだった。
狭いバスタブからは水が溢れて、それを止めようとレンがまた腕を伸ばす。コックの閉まる音を聞いて、一緒にあたしも息を潜める。急に静かになったバスタブと、二人分の小さな鼓動。何してんだか、と独り言のように呟いたレンが、あたしのお腹に腕を回した。それが何だか擽ったくて、うひひひひと笑ったらやっぱりレンは溜息をついた。
+++++
*指先の五線譜
※『神の子羊』のおはなし。
「痛、っ」
ぴっ、と、指先に細く鋭い痛みが走る。重ねて持っていた楽譜の内の一枚が、右手の人差し指の皮を裂いたのだと気付くのに、さして時間は掛からなかった。咄嗟に掌を握り締め、しまった、とリンは顔を顰る。この程度のかすり傷、気にする程の物では無いと頭では分かっているのだが、紙で出来た切り傷は、どうもささくれのように人の心に刺を刺す。
「……どうしたの?」
静かだった教室に、突然響いた微かな悲鳴に、レンもまた楽譜から顔を上げた。椅子に行儀良く腰掛けていたレンの手元で、楽譜はカサリと小さな音を立てる。それを聞いて、リンはより眉を寄せた。窓枠に腰掛け、気持ち良く音符を辿っていた時の、清々しい心地は嘘のように萎んでいく。吹き込む風が、レンのスカートの裾をそっと撫でるのが不愉快で、忌ま忌ましげに窓を閉めた。
「指、切っちゃった」
「見せて」
折り畳まれたスカートを、めくれないよう片手で器用に押さえてレンは立ち上がる。一連の所作は風に揺れる白百合の花を連想させて、まるで育ちの良いお嬢様のようだった。実際、レンの仕種は一々とても女性らしさに溢れている。指先の細やかな動きが、睫毛の伏せ方のひとつひとつが、双子の姉であるリンよりも優美な、と言うよりは女性美そのまま表したようなものであると学内でもよく囁かれていた。それに呼応するように、リンのはっきりとした物言いと態度が凛々しさを感じさせ、より下級生の甘やかな吐息を呼ぶのだろう。
「本当だ。絆創膏貰ってくる?」
「良いわよ別にこれくらい……。ねえ、あんまり女の子振るの止めたら?やり過ぎは逆に目に付くわ」
「はいはい。僕があんまり女の子っぽいからってひがむの止めてくれる?」
握られていたリンの手を取って、目の前に掲げながらもレンは瞼を伏せ、普段は早々に見せないような、唇をうっすらと曲げるだけの笑みをほんの微かに浮かべた。その笑みからは、嘘を吐いて生きる事に慣れた者の不遜さが僅かに滲み出ていて、リンは大きく溜息を吐いた。放課後の空き教室に長らく人の気配は無く、腰掛けたリンと膝が触れ合う程の距離を共有しているという安心だろうか。レンの瞳に浮かぶのは、普段教室で見る作り物の柔らかさよりも、もう少しリンの見慣れたものになっていた。その鮮やかさには、正しく少年らしいと呼ぶに相応しい、リンがいつも演じているものとは全く違う自然で甘い凛々しさが含まれていた。
女学園という女性しかいない空間でも、レンよりも女性らしい生徒は余り見ない。しかし、それはある意味当たり前といえば当たり前で、レンが女性らしいのはつまりレンが『そうでない』からだ。女性らしさ、というのは、あくまで女性を外から見た際に定義付けられたもので、実際にそれに則して自己を形成しようという女性は少ない。女性は、女性であるだけで少なくとも女性だ。『らしさ』などに頼る必要は無い。しかし、女性でないものが女性に成り切ろうとすれば、少なからずそれは『女性らしさ』に頼らなければならない。レンは正しくそうだった。本来の性別とは違った形を演じているからこそ、その仮面は女性らしくを求めていく。
「でも血が出てるよ?」
「紙で切ると大体そうなるでしょ、舐めておけば治るわ」
「………そう」
素っ気なく言い切ったリンに、レンは小さな声で応じた。両手で上下から包み込むように握っていたリンの手を、しばらくじっと見つめていたかと思うと、やがて赤い血が滲む細い指を自分の口元へと引き寄せる。傷口に軽く口付けるように触れてから、まるで当然のようにリンの指先を己の唇の内側に含んだ。
指に触れるざらりとした感触と共に、傷口から伝う神経質な痛みにリンは僅かに顔を歪める。それでも、自分の指を舐めるレンをリンは無表情に見つめていた。普通ならば、他人に指先を舐められるというのは不愉快な行為に分類される。けれど、リンにとって、レンに触れられるのは決して不愉快な事ではなかった。リンはレンを他人とは思っていない。レンは間違いなく、もう一人の自分だ。けれど、二人を繋ぐ絆は曖昧で、少し目を離した隙にはらはらと千切れて消えてしまう。例えばそれは、カサリと音を立てる楽譜の折目のように。
「リン、手が冷たい」
「……しばらくここにいたから、冷えたのかもね」
「やっぱり、絆創膏貰って来よう。練習は明日で良いよ」
リンの手を唇から離すと、レンはポケットから取り出した淡いオレンジのタオルハンカチでそっと包み込んだ。その上から労るように手を摩り、やがて自分の手の中に握り締める。冷たいリンの手と違い、レンの手からは確かな暖かさを感じる。きっと、だからレンは指先を切ったりしないんだと、訳も無くリンは考えた。そしてそれが、二人を隔てる何かなのだ。だからこそ、二人は離れてはならないのだと、異なる掌の体温は仕切にリンに告げている気がした。
+++++
*時雨を愛した人
「俺は、凜を愛しく思っているよ」
良く晴れた、まるで一筆で塗られた淡い水彩の様な夏の空の下で、私の手を引いた兄はそう言った。それが余りに自然で、零れ落ちる夜露の様に紡がれたものだから、私は返す言葉を無くしてしまう。
「……私は貴方の妹ですから、貴方が私を愛するのは当たり前でしょう?」
「まさかそんな答が返って来るとは思っても見なかったよ、凜は流石だな」
「からかって居るのなら止めて下さい。不愉快です」
夏の陽射しはかんかんと私達を照らし、真夏の学生服は蜃気楼に溶ける様だった。あれは、向日葵の花だろうか。私が大嫌いな花だ。私達を取り囲み、夏の内に窒息させようと隙を見ては風に揺れている。ゆらゆら、ゆらゆらと揺れるのっぺらぼうの様なその花は、私に背を向ける兄の学帽から零れる鮮やかな色と似ていた。また、嘘にも成れない空の言葉ばかりをとめどなくも零し続ける、私にも。
「からかって居る訳では無いんだけどな、どう言えば凜は分かってくれる?」
「分かる様におっしゃって下されば。お兄様は何時でも言葉が足らぬ上に、唐突過ぎるのです。其れでは御偉い学者さんで在っても貴方の言葉はわかりません」
「凜は辛辣だなー」
私に背を向け太陽を見上げたまま、兄は微かに肩を震わせて笑った。淡く光を浴びる睫毛が震え、其れが頬に落とす影の形すら、分かる様だった。見なくても分かる笑顔を見上げ、私はまた眩しさに目を細める。太陽の光は私達をじっと見下ろし、兄は私に影を落とした。太陽を見上げるその人は、やはり向日葵の花の様。大嫌いだ、と唇の奥で呟く。この時初めて、私は夏に向かって真っ直ぐ咲く花が嫌いになった。兄の面影を感じるものは、何だって大嫌いになるものだった。幼少の頃から変わらない癖だ。
「……お兄様は、私を愛しく感じると言うのですか」
「そうだよ。でも凜は、俺が嫌いだろう?」
兄に似ているものが嫌い。兄が愛するものが嫌い。
それでは私は、この世に存在するものの何もかもが嫌いになってしまう。兄は余りに、人を愛し過ぎる。手に触れるものを全て愛してしまう。そして全てに、自身の影を置いていく。だから、この人は空っぽだ。夏の空の様な空洞が、兄の身体の内ではぽっかりとした光をさんさんと落とし、兄を内側から透かして消えていく。
「ならお兄様、凜の我が儘を一つ聞いて下さい」
「……凜が?我が儘を言うなんて、珍しいな」
私の言葉に、漸く兄は私を振り返った。暫く振りに見るその面立ちは、光の中に溶けて仕舞って眩しかった。兄の白い肌が、学帽の内で影を生み、私を見る瞳がきょとん、と丸く開かれる。驚きに僅かに開かれた形の良い唇を見る度に、この人は自分よりもずっと女性らしいと思ってしまう。
驚いて居たらしい兄も、やがて直ぐに何時もの様な、含羞んだ笑みを浮かべて私を見た。何も言わずに先を促す。柔らかい笑みが、一体どの花弁に似ているのだろうか。兄は花の様な人だった。けれど、気高い薔薇だけは似合わない。ひっそりと忘れられた様に咲く、一輪の花の様な人。だから私は、薔薇の花なんて大嫌いだった。向日葵よりも大嫌い。あの刺は、触れる物全てを引っ掻いて、白い指に傷を付ける。
「口付けを、下さい。一度だけ、今此処で」
私は、兄が嫌いだ。大嫌いだ。
けれどそれ以上に、愛しているのだろう。愛してはいけない人だと云うのは、この心臓が悲鳴を上げる程に分かっているのに。私は自分がこの人を一体どの様に思っているのか、実際の所は良く分からない。傍に居なければ良いのにと何時も思う。けれど、一時も忘れた事は無い。貴方が嫌い、だから好き。夏の空が、秋の時雨が、兄を感じるその空気が、両手で振り乱して仕舞いたいくらい大嫌いで、愛おしい。いっそこの肺に全て吸い込んで、何処にも向かわせないまま私の胸に詰まらせて、窒息死して仕舞いたい。
「ああ、良いよ」
私の狂おしいまでの恋情を、兄はただ一言、酷くあっさりとそう言うと、繋いで居た私の手を離した。汗ばんだ掌が、喪失感を感じるその前に、唇を同じくらいの生温い熱が覆い隠した。柔らかい、のだろうか。他人の唇等知らない私は、それを言葉で説明する術を持たない。少しだけ湿度を含んだ夏の風が、足元を吹き抜け服の裾を揺らす。投げ出され、行き場を無くしていた掌に、もう一度同じ掌が触れた。兄の手は、どうしてこんなにも細く華奢で、けれど私より大きな手なのだろう。女性らしい面立ちの、少女の様な含羞みを見せる人なのに、男であるのだと私に実感させる。そして同時に、だから愛しているのだと私に告げる。夏とは違う、知ってはならない浮かされた熱を、私の胸に孕ませる。
何処までも続く、抜ける様な青空の下、私達は暫くそうしていた。私は閉じる事の出来ない瞼に、伸ばす事も叶わない掌に、ただただじっと立ち竦んでいた。だから私は、夏が嫌いだ。あの時触れた唇も、今この手に触れる冷たい熱も、私を抱いた兄の腕も何もかもが大嫌いだ。
+++++
*メリーゴーランドの馬車
※未完、監禁注意
時間が憎らしいと言ったのは、彼女だ。かつて瓜二つだった容姿は見る間に遠退き、無条件の愛は廃れて行った。重ねた手がいびつになることを恐れ、怖いと泣いたのは彼女の方だったのに。
先に離れていったのもまた、彼女の方だった。再び出会った時、ふっくらとした唇は紅を差したようになり、伏せられた睫毛の影は不思議な陰りを持っていた。気付くと影は触れられない程長く伸び、まだ手の中にあると思っていた記憶の鍵すら、彼女はあっさりとどぶの中に捨てていた。ならば、もう一度追い掛けて捕まえて、閉じ込めなければならないと思うのは仕方ない事だろう。
「ただいま」
そう言って扉を開けるとほぼ同時に、顔に何か柔らかいものがぽふんっ、と当たる。擬音通り、大して痛くもなかったそれは、払うまでもなく俺の足元に落ちた。見れば、柔らかい筈だ。それは綿の詰まった兎の人形だった。折角買ってきてあげたのに、と溜息を吐きながらそれを拾い上げると、軽く叩いて埃を払う。批難するように顔を上げれば、間違いなくそれを投げ付けた当人である、リンがぎりりと鋭い目付きでこちらを睨み付けていた。
「リン、物を投げちゃいけないって教わらなかった?」
「っうるさい、黙れ、いい加減にしろ」
「いい加減にして欲しいのはこっちだよ。兎嫌い?」
「そんなこと言ってるんじゃないっ、」
一語一語吐き出すように声を掠れさせながら、けれども確かに荒げた声で、彼女は激しい憎悪に歪んだ顔で俺を睨み付けていた。ベットの上にうずくまるよう両手でシーツを握り締め、何とか倒れてないよう支えなければならない程にまで弱り果てた体でも、その眼差しは正しく射るようだ。まだまだ元気だなあと関心する。もう一ヶ月近く外に出ていないというのに、その闘志はまだ燃え尽きてはいなかった。まあ、気力で生きているようなものだけれど。
リンの存在を外に漏らさない為、部屋には常にカーテンを閉めている。昼間でも一切日の差さない部屋の中で、リンは一日中ベットの上にうずくまっていた。食事はきちんと三回差し入れている。けれど、抵抗なのかストレスなのか、殆ど食べようとしないので、無理矢理口に捩込んでいた。それでもごく少量しか摂らないから、リンはここ一ヶ月で随分痩せた。眠れないらしく瞼を縁取る隈も酷い。それでも、俺が毎日違う真新しいワンピースドレスに着替えさせるから服装だけは華やかで、リンは窶れたアリスのようだった。血色の悪い唇は、日に日に醜い言葉を吐き付けるようになる。人から見れば大層悍ましく見えるのであろう堕ちていくその姿が、俺にとっては何とも言えず綺麗だった。
「どうしてっ、あたしがこんな目に、早く出してよ、うちに帰して」
喘ぐようにぶつけられる言葉に、少なくとも彼女の限界を感じる。そりゃあ限界だろう。元々負けん気は強い方だろうし、自分の自由というものが迫害されるのが、リンにとって1番嫌いな事である筈だ。憎むほど元気があるのではなく、憎まなければ保てないのだと言っていい。いつかは可憐に笑う乙女だった少女が、今は手負いの獣のようになっている様が、可笑しい程に愛おしくて笑えた。その旨を伝えれば、リンはベッドの上に幾重も折り重なったエプロンドレスの裾を握り締め、また同じ言葉を繰り返す。その言葉が、俺の存在をまた一つ殺す。
「あんた、一体誰なのよ……!」
少なくとも昔、俺とリンは双子の片割れだった。互いが互いの影であり、本体。過剰と不足の対関係。お互いが、お互いの存在理由と成り得る存在だった。けれど、時間の波は両親を他人に戻し、俺とリンをばらばらにした。そして、再び出会った時、俺の半身だった少女はいなくなっていた。花のような笑顔で、見知らぬ男の手を取る少女は、過剰でも不足でもなく完全だった。だったら、俺はどうすればいい?どうすればよかった?俺はリンがいなければ、存在すら出来ないままなのに。俺の存在理由が見付からない。答えが見付からなくて、見付けるだけの時間も与えられなくて、ただそれは俺からあった筈の未来だけを奪い去って行った。
だから、掠った。騙した。先に裏切ったのは、リンの方だ。狼の甘言には耳を貸してはいけないと、哀れな赤頭巾は教わらなかったらしい。
「出ていきたかったら出ていきなよ。別に鎖で繋いでる訳でもないし」
「っ、………」
「ああ、でもその足じゃ無理か」
スカートを握り締め、リンは唇を噛む。その下に隠れた足は、ひょっとしたらもう二度と足としては機能しないかもしれない。連れて来た当初、リンがあんまりにも暴れるから、大人しくしてもらう為に少し痛い目を見てもらうことにした。そうすれば、リンはここから出ようなんて馬鹿な事を考えるのは止めると思ったからだ。俺だって、リンの足を傷付けるなんて嫌だった。でも仕方なかったんだ。言う事を聞かないリンが悪い(俺達は一体何処まで違えてしまったんだ?)
「でも、這ってでも扉まではいけるだろうし、何なら俺を突き飛ばすでもして逃げれば良いじゃないか。なのに、なんで君は何もしないで、そこにうずくまってばっかりいるの?」
「う、るさい、違う、あたしは、」
「本当はもう分かってるんだろ?リン」
弟を探しているのだ、と彼女は言った。探してあげるよ、と俺は言った。暗がりで囁いた真っ赤な嘘に、過ちを犯したのは彼女だった。気付かなければゲームは終わる。盆をひっくり返せないチェスゲーム。彼女は負けて俺も負けた。手の中に残った冷酷なクイーンだけで、それは望んだものとは随分違う、赤い色をしていた。離れたくて、離れて欲しくなくて、じりじりと遠回しに逃げ場を無くす俺の言葉は届かない。
「知らない振りはもう終わりだよ。君はとっくに気付いてる筈だ。ねえ、リン?まだ同じ事を繰り返すつもり?」
「ちがう、ちがうちがうちがう!あんたなんて知らない、あんたなんてしらない………っ!」
駄々を捏る子供のように、リンは両手で耳を塞いでベッドにうずくまった。俺は逃げる事の出来ないリンに近付いて、またその耳元で囁く。リンはそれを拒んで、また首を振って否定詞ばかりを繰り返すから、そのか細い手首を掴んで、無理に顔を上げさせた。リンの引き攣った悲鳴だけが、暗い部屋に痛々しく響く。
「や、嫌だ、触るなぁ!近寄るな、もう何も聞きたくない……!」
「リン、」
「もう、やだぁ……もう、眠りたい…っ、ねむらせて」
絞り出すように吐き出された言葉と共に、リンは弱々しく俯いた。きつく握られた掌が、深い赤色の上で震えている。俺は、不思議な心地でリンを見下ろした。一体リンは、何にそこまで怯えているのだろう。可哀相なリン。いつか彼女は、溢れた砂時計に埋もれてしまうに違いない。だから、そこから連れ出してあげたいだけなのに。リンは閉じ込められた瓶の中で、まさか眠り続けるつもりなのだろうか。掴んだ手だけは妙な熱を帯びている気がして、俺はまた、死んだ俺の上に折り重なって、嘘が一つ死んでいくのを感じた。
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クロノフォビア(sm12155296)